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		<title>Gospel Translations - User contributions [en]</title>
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		<updated>2026-04-09T22:44:21Z</updated>
		<subtitle>From Gospel Translations</subtitle>
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		<id>http://en.gospeltranslations.org/wiki/Gospel_Implications/ja</id>
		<title>Gospel Implications/ja</title>
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				<updated>2009-01-31T03:04:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Michiru: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|福音の含意}}&amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''信者たちを福音の真理について考えさせ、まっすぐに歩むよう導く''' &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会は次のようであれば健全である。（１）牧会する立場にある教師たちが、正しく効果的で、しかも幅広く信者たちに実生活の中で耐えていけるよう福音を伝達することができる。更に、（２）日々福音の善の中で生活できるよう、信者たちが福音の深い理解と正しい認識を持つ。私はこれを福音の&amp;lt;u&amp;gt;機能的中心&amp;lt;/u&amp;gt;と呼んでいる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この目的を達成するために重要なことは、福音とその教義上、行動上の関係を明確にすることである。これらの関係をそれぞれ「福音の真理」、「福音的行動」と呼ぶことができるかもしれない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三つ同心円を想像してみてほしい。中心にあるのは福音で、おそらくコリント人への手紙第一１５章３節の、「キリストはわたしたちの罪のために死なれた」という言葉が最も良く表している。この簡単な句は、私たちの罪の現実、神の罰、そしてキリストにあって神がご自身の怒りから救い出してくださったことを示している。パウロはこの「良き知らせ」を「最も重要なこと」として語り、彼の説教と書物の中で、このメッセージを優先していることがよくわかる（コリント人への手紙２章１～４節参照）。つまり、福音の中心である。しかし、&amp;lt;u&amp;gt;機能的な&amp;lt;/u&amp;gt;中心であるためには、信者たちが生活する領域と&amp;lt;u&amp;gt;結びついていなければ&amp;lt;/u&amp;gt;ならない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことは二つ目の円である福音の真実へと導く。福音の真実は、具体的で実際の教義上の福音の結果である。あるいはパウロが言っているように、「栄光の福音を形作る教え」（つまり、栄光の福音から形成される教え）である（テモテへの手紙第一１章１０～１１節）。これらの福音の真理は特に精神的に忍耐することができるために福音を導く。それらは、私たちの思考が更に福音の真理によって形成され、心を一新するのに役立つ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの期待するように、ローマ人への手紙は特に、これらの福音の真理に満たされている。三つの例を挙げてみよう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）ローマ人への手紙５章１節でパウロは次のように述べている。「&amp;lt;u&amp;gt;従って&amp;lt;/u&amp;gt;、私たちは信仰によって義と認められている&amp;lt;u&amp;gt;ので&amp;lt;/u&amp;gt;、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」この節の理論に注目してほしい。何かが重要な福音の真理から生じている。私たちの神との平和は福音そのものではなく、力強い福音の結果から生まれる、「福音の真理」なのである。そして、この福音の真理を理解することは、信者の考えを栄光の福音へと考えを適合させることの一部なのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）ローマ人への手紙８章１節では次のように書いてある。「&amp;lt;u&amp;gt;こういうわけで&amp;lt;/u&amp;gt;、&amp;lt;u&amp;gt;今は&amp;lt;/u&amp;gt;、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」再度、この議論に注目しよう。パウロはここで福音そのものではなく、「今」、&amp;lt;u&amp;gt;福音のゆえに&amp;lt;/u&amp;gt;真実である何かについて論じている。しかし、その影響は驚くべきものである。信者が完全に理解する時、それは彼らの精神世界を変革し、福音は力強く&amp;lt;u&amp;gt;機能する&amp;lt;/u&amp;gt;ことになる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）ローマ人への手紙８章３２節は私の気に入っている箇所だ。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、&amp;lt;u&amp;gt;御子といっしょに&amp;lt;/u&amp;gt;すべてのものも&amp;lt;u&amp;gt;同様に&amp;lt;/u&amp;gt;恵んでくださらないことがありましょう。」これらの「同様に」、「御子といっしょに」という言葉に注目してもらいたい。それらは福音から何かについて語っている。信者が福音の真理そのもの（「私たちすべてのためにご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された」）と私たちが聖化（２８～２９節参照）のために必要なすべての神のあわれみ、深い賜物に関しての福音の真理との間の関係を見る時、福音は神の供給の中で日々の信頼を強化するのに役割を果たす。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、福音は私たちの考えを形成するだけでなく、福音による大きな行動上における影響もある。福音は私たちの心を一新するだけでなく、私たちの行いにも影響する。聖書はこの福音に基づく生活の多くの例を提示している。ガラテヤ人への手紙２章１４節でパウロはペテロを「福音の真理についてまっすぐに歩んでいない」ことについて非難しているし、ピリピ人への手紙１章２７節ではパウロは信者たちに「福音にふさわしく&amp;lt;u&amp;gt;ふるまう&amp;lt;/u&amp;gt;」ことを促している。言い換えれば、福音が機能すべき方法の一つは、具体的な行動をとることによってなのである。このようにして、私たちはこれらの関係を見つけられるように聖書を読むべきなのである。従って、例えば、パウロがコリント人たちに「不品行を避けなさい」と訴える時、彼は明確に福音に基づいているのである。「あなた方は自分自身のものではありません。代価を払って買い取られたのです。&amp;lt;u&amp;gt;ですから&amp;lt;/u&amp;gt;自分の体をもって、神の栄光を現しなさい」（コリント人への手紙第一６章１８節～２０節）。パウロが赦しを促す時、はっきりと福音の動機と模範を考慮している（エペソ人への手紙４章３２節）。また、夫たちに自分の妻を愛するように勧めているのは、直接福音に関わっている（エペソ人への手紙５章２５節）。コリント人へ、自発的に寛容さを示すよう呼びかけているのは、明らかに、福音の中での神の偉大な行為を思い起こさせる（コリント人への手紙第二８章７，９節、９章１２～１３，１５節）。他にももっとたくさんの例が挙げられるかもしれない。最終的には、すべてのクリスチャンの行為は福音に満たされているべきなのだ。働きすぎて疲れ果ててしまうのは避けるべきだが、この関係は生活のあらゆる面で存在するべきだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧会する立場にある教師に課されている最大の課題と重要な仕事の一つは、これらの関係を明確に&amp;lt;u&amp;gt;示す&amp;lt;/u&amp;gt;ことだ。それにより、信者たちが彼らの思考と行いの両方に耐えるために具体的そして知恵を持って福音を用いることができる。このようにして、福音は個々のクリスチャンと地域教会にとって&amp;lt;u&amp;gt;機能的に&amp;lt;/u&amp;gt;中心となるのだ。&amp;lt;u&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/u&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Michiru</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://en.gospeltranslations.org/wiki/Gospel_Implications/ja</id>
		<title>Gospel Implications/ja</title>
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				<updated>2009-01-31T02:46:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Michiru: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|福音の影響}}&amp;amp;nbsp;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''信者たちを福音の真理について考えさせ、まっすぐに歩むよう導く'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地域教会は次のようであれば健全である。（１）牧会する立場にある教師たちが、正しく効果的で、しかも幅広く信者たちに実生活の中で耐えていけるよう福音を伝達することができる。更に、（２）日々福音の善の中で生活できるよう、信者たちが福音の深い理解と正しい認識を持つ。私はこれを福音の&amp;lt;u&amp;gt;機能的中心&amp;lt;/u&amp;gt;と呼んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この目的を達成するために重要なことは、福音とその教義上、行動上の関係を明確にすることである。これらの関係をそれぞれ「福音の真理」、「福音的行動」と呼ぶことができるかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三つ同心円を想像してみてほしい。中心にあるのは福音で、おそらくコリント人への手紙第一１５章３節の、「キリストはわたしたちの罪のために死なれた」という言葉が最も良く表している。この簡単な句は、私たちの罪の現実、神の罰、そしてキリストにあって神がご自身の怒りから救い出してくださったことを示している。パウロはこの「良き知らせ」を「最も重要なこと」として語り、彼の説教と書物の中で、このメッセージを優先していることがよくわかる（コリント人への手紙２章１～４節参照）。つまり、福音の中心である。しかし、&amp;lt;u&amp;gt;機能的な&amp;lt;/u&amp;gt;中心であるためには、信者たちが生活する領域と&amp;lt;u&amp;gt;結びついていなければ&amp;lt;/u&amp;gt;ならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことは二つ目の円である福音の真実へと導く。福音の真実は、具体的で実際の教義上の福音の結果である。あるいはパウロが言っているように、「栄光の福音を形作る教え」（つまり、栄光の福音から形成される教え）である（テモテへの手紙第一１章１０～１１節）。これらの福音の真理は特に精神的に忍耐することができるために福音を導く。それらは、私たちの思考が更に福音の真理によって形成され、心を一新するのに役立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちの期待するように、ローマ人への手紙は特に、これらの福音の真理に満たされている。三つの例を挙げてみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）ローマ人への手紙５章１節でパウロは次のように述べている。「&amp;lt;u&amp;gt;従って&amp;lt;/u&amp;gt;、私たちは信仰によって義と認められている&amp;lt;u&amp;gt;ので&amp;lt;/u&amp;gt;、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」この節の理論に注目してほしい。何かが重要な福音の真理から生じている。私たちの神との平和は福音そのものではなく、力強い福音の結果から生まれる、「福音の真理」なのである。そして、この福音の真理を理解することは、信者の考えを栄光の福音へと考えを適合させることの一部なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）ローマ人への手紙８章１節では次のように書いてある。「&amp;lt;u&amp;gt;こういうわけで&amp;lt;/u&amp;gt;、&amp;lt;u&amp;gt;今は&amp;lt;/u&amp;gt;、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」再度、この議論に注目しよう。パウロはここで福音そのものではなく、「今」、&amp;lt;u&amp;gt;福音のゆえに&amp;lt;/u&amp;gt;真実である何かについて論じている。しかし、その影響は驚くべきものである。信者が完全に理解する時、それは彼らの精神世界を変革し、福音は力強く&amp;lt;u&amp;gt;機能する&amp;lt;/u&amp;gt;ことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）ローマ人への手紙８章３２節は私の気に入っている箇所だ。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、&amp;lt;u&amp;gt;御子といっしょに&amp;lt;/u&amp;gt;すべてのものも&amp;lt;u&amp;gt;同様に&amp;lt;/u&amp;gt;恵んでくださらないことがありましょう。」これらの「同様に」、「御子といっしょに」という言葉に注目してもらいたい。それらは福音から何かについて語っている。信者が福音の真理そのもの（「私たちすべてのためにご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された」）と私たちが聖化（２８～２９節参照）のために必要なすべての神のあわれみ、深い賜物に関しての福音の真理との間の関係を見る時、福音は神の供給の中で日々の信頼を強化するのに役割を果たす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、福音は私たちの考えを形成するだけでなく、福音による大きな行動上における影響もある。福音は私たちの心を一新するだけでなく、私たちの行いにも影響する。聖書はこの福音に基づく生活の多くの例を提示している。ガラテヤ人への手紙２章１４節でパウロはペテロを「福音の真理についてまっすぐに歩んでいない」ことについて非難しているし、ピリピ人への手紙１章２７節ではパウロは信者たちに「福音にふさわしく&amp;lt;u&amp;gt;ふるまう&amp;lt;/u&amp;gt;」ことを促している。言い換えれば、福音が機能すべき方法の一つは、具体的な行動をとることによってなのである。このようにして、私たちはこれらの関係を見つけられるように聖書を読むべきなのである。従って、例えば、パウロがコリント人たちに「不品行を避けなさい」と訴える時、彼は明確に福音に基づいているのである。「あなた方は自分自身のものではありません。代価を払って買い取られたのです。&amp;lt;u&amp;gt;ですから&amp;lt;/u&amp;gt;自分の体をもって、神の栄光を現しなさい」（コリント人への手紙第一６章１８節～２０節）。パウロが赦しを促す時、はっきりと福音の動機と模範を考慮している（エペソ人への手紙４章３２節）。また、夫たちに自分の妻を愛するように勧めているのは、直接福音に関わっている（エペソ人への手紙５章２５節）。コリント人へ、自発的に寛容さを示すよう呼びかけているのは、明らかに、福音の中での神の偉大な行為を思い起こさせる（コリント人への手紙第二８章７，９節、９章１２～１３，１５節）。他にももっとたくさんの例が挙げられるかもしれない。最終的には、すべてのクリスチャンの行為は福音に満たされているべきなのだ。働きすぎて疲れ果ててしまうのは避けるべきだが、この関係は生活のあらゆる面で存在するべきだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧会する立場にある教師に課されている最大の課題と重要な仕事の一つは、これらの関係を明確に&amp;lt;u&amp;gt;示す&amp;lt;/u&amp;gt;ことだ。それにより、信者たちが彼らの思考と行いの両方に耐えるために具体的そして知恵を持って福音を用いることができる。このようにして、福音は個々のクリスチャンと地域教会にとって&amp;lt;u&amp;gt;機能的に&amp;lt;/u&amp;gt;中心となるのだ。&amp;lt;u&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;/u&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Michiru</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://en.gospeltranslations.org/wiki/Transforming_Love/ja</id>
		<title>Transforming Love/ja</title>
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				<updated>2008-12-13T03:04:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Michiru: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{info|変えられていく愛}}&amp;amp;nbsp; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある深く落胆した父親が、ゆっくりと死にゆく３歳の息子を２週間小児科治療室で看病していた。この２週の間、かなり驚いたことに、彼はある福音書を通読していた。彼は後に、「福音書は本当に実生活のためのものだ。」と私に書いてきた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は彼の言葉に当惑した。福音書のひとつがこの深い悲しみにある父親をどうやって助けることができたのだろうか。災難な出来事の中で神に信頼することについての本なら役立つかもしれないと思った。けれど福音書が？どのようにしてそのような時に助けとなったのか？私はこの問いに数週間深く考えた。そしてある日、神の愛についてのメッセージを準備していた時、その解答に至った。その福音書の中で、この父親は神の愛がわかったのだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
使徒ヨハネは次のように書いている。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」（ヨハネの手紙第一４章９，１０節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、「もし神の愛を理解したいのならまず十字架を見なさい。」とよく話す。なぜなら十字架が神の愛の際立った表れだからである。神がご自分の御子を私たちの罪のなだめのために十字架へと送られた。なだめ、とは良い聖書用語ではあるが、今日のクリスチャンにはほとんど理解されていない。おそらく、私たちが耐えなければならなかった神の正義と聖なる怒りの矛先をイエスが十字架上で耐えてくださったということがこの言葉を考える上で最善の方法であろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちすべては罪のため神の怒りを受けるに値する。未信者たちが日常的に犯す罪ならず、信者である私たちが毎日犯す罪であっても。しかし、もし私たちがキリストに信頼するなら、神の怒りをみじんも経験することはない。イエスは、私たちの代わりに、神の怒りの杯を飲み干してくださった。&amp;lt;br&amp;gt;またヨハネは、神はご自分の愛のうちに、私たちにそのことを成すためにイエスを送ってくださった、と言っている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熱心なクリスチャンたちが神の愛を疑いやすい主な理由は二つある。最も一般的なのは、どういうわけか、私たちに深い罪の意識がある時である。おそらくそれは生活の中で執拗に犯し続けてしまう罪のパターン、あるいは私たち全人類の持つ全般的な罪である。そのような時には私たちはしばしば、「私のように罪深い者を神はどのようにして愛することができるだろうか。」と思ってしまうのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どちらの例にしても私たちは、深く罪悪感に悩ませている罪を耐えてくださっている十字架上のイエスを再び見上げる必要がある。それから私たちは、「神は罪の知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」（コリント人への手紙第二５章２１節）、ということを思い出す必要がある。神は私たちの罪を取り除いてくださった。すなわち、&amp;lt;br&amp;gt;そのことによって生じるにもかかわらない苦痛をキリストに課し、完全な神の義を私たちに与えてくださった。神は、私たちが愛すべき者であるからではなく、神ご自身の惜しみのない愛によってこのことを成してくださった。ヨハネが先に述べたように、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった。」のである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二つ目の、私たちが神の愛を疑ってしまいがちな根拠は、不幸な境遇の中にいる時である。私たちは、「もし神が本当に私を愛してくださっているなら、こんなことが起こることを許されるはずがない。」と思ってしまうかもしれない。そのような疑いの中にある時、私たちは再び、神がご自身の御子を私たちのために捧げてくださった十字架上のイエスを見上げる必要がある（ローマ人への手紙８章３２節）。最終的にはパウロが同じ箇所で「一体誰が私たちをキリストの愛から離すことができようか。」という問いかけをし、その少し後でこう断言している。「どんなものも私たちの主、キリストから私たちを引き離すことはできません。」（ローマ人への手紙８章３５～３９節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
偉大なピューリタン、ジョン・オーウェンはかつてこのように書いている。「あなたが父なる神に課す最大の悲しみと重荷、そして最大の不親切は、神があなたを愛しているということを信じないことである。」父なる神の最も大きな悲しみは、私たちが神の名を汚す恥ずべき罪を犯すことであるとオーウェンが語るのであろうと予想していたかもしれない。確かに罪は神を悲しませるが、オーウェンは、神の愛を疑うことはもっと神を悲しませると言っている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だから、もしあなたが自分の罪から、あるいは困難な状況から神の愛を疑いそうになったら、十字架を見上げ、神がすべての疑いを越えて十字架上でご自身の愛を示してくださったことを思い起こすのだ。それだけでなく、困難を待ち構えるな。疑いと失望の時から自身を守るために、十字架を日々見上げなさい。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、神の愛の真実がすばらしいのと同じように、ヨハネは私たちを単に自身の楽しみだけに神の愛に浸ったままにはさせない。むしろ彼は、とても鋭い適応をしている。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」（ヨハネの手紙第一４章１１節）その含意は、神が私たちを愛してくださったので私たちも互いに愛し合うべきであるというだけでなく、私たちは神が私たちを愛してくださっているのと同じ方法で他者を愛すべきである、ということである。それは、私たちを神が罪と一般的な醜さがあるにもかかわらず愛してくださっているので、私たちも互いを愛するべきだ、ということである。すなわち、いやな人もすべて。それは、私たちが相手の生活の中で罪を無視するという意味ではなく、罪が私たちに向けられた時に、神がキリストにあって私たちを赦してくださったように私たちも愛する、ということである。（エペソ人への手紙４章３２節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神の、私たちへの赦しを基本として互いに赦しあう用意のできていることが、相手への愛の最大な表れであると私は信じている。イエスのたとえ話の、赦さない使用人（マタイ１８章２１～３５節）は、このテーマにおいてとても教訓的である。初めに出てくる使用人は主人に１００００タラントの借金があった。それはすなわち一般的な労働者の２０００００年分の収入に匹敵するものであり、返済不可能な額である。二人目の使用人は初めの使用人に１００デナリ借りていた。およそ１年の３分の１の収入に匹敵する額である。金額そのものが重要ではない。私たちの多くは１年の３分の１の収入の借金を帳消しにはしたくないが、２０００００年分の借金に比べれば、１年の３分の１の収入分は大したことではない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このたとえ話のポイントは、それぞれ私たちはこの初めにでてきた使用人である、ということである。私たち自身の罪のために神への負債は信じがたいものである。返済不可能な額なのである。これに比べ、相手が自分に対して犯した罪の負債は、それ自体は大きなことかもしれないが、自身の神に対する負債に比べれば、なんでもない。したがって、誰かが私に対して罪を犯した時には、実際にそう感じられてもそうでなくても、「しかし神よ、私は１００００タラント負っているものです。」と応答するようにしている。そうすることによって、相手の罪を適切な見方でみることができ、神が私を赦してくださったように惜しみなく赦すことができる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テーブルトークの読者は皆、愛において模範的なコリント人への手紙第一１３章に、ある程度なじみがある。しかし、４節から７節にある愛の記述についてどれだけ多くの赦しや自制についてなされなければならないか気づいただろうか。愛はまず初めに自制と赦しによって表される、耐え忍ぶことなのである（コロサイ人への手紙３章１２、１３節参照）。それは短気で怒りっぽいのと違う。それから愛は、すべてを我慢し、すべてを耐え忍ぶ。赦しと自制。それらは異なった方法だが同じアイディアの表現である。そして私たちは神がキリストにあって私たちを赦してくださったように私たちも赦すべきなのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん、神の愛であっても、私たちの愛であっても、赦しよりも愛があるのだ。神は決して私たちを見捨てず（ヘブル人への手紙１３章５節）、私たちのすべての必要を満たし（ピリピ人への手紙４章１９節）、すべてのことを働かせて益とする（ローマ人への手紙８章２８節）と約束してくださった。神は、時あるごとに私たちに課す訓練は、神の聖さにあずからせるための愛の表れであるとおっしゃっている。（ヘブル人への手紙１２章５～１１節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じように、私たちはキリストの体である互いを兄弟愛をもって愛するべきである。（ローマ人への手紙１２章１０節）つまり、互いの世話をし、励まし、祈り、そしてもし適切であるなら物質的にも助けるという意味である。（ヨハネの手紙第一３章１６～１８節） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明らかに、私たちは神が私たちを愛してくださっているのと同じ方法で、又は同じ程度に相手を愛することはできない。私たちは赦すことはできるが、他者の罪の償いをすることは決してできない。そして神はご自分の愛において、主権を持っておられ、ご自身の目的をすべて成しとげるため、神の愛を表現する力を持っておられる。私たちにこのことはできない。私たちはしばしば、自分が表すことのできる愛の範囲以上のことができたらと思ってしまう。しかし私たちは、神との基本的な関係においても、他者との関係においても、決して神から私たちへの愛の視野を失ってはならない。ヨハネは、「神がまず私たちを愛してくださったので私たちは愛する」と言っている。（ヨハネの手紙第一４章１９節）私たちの愛の対象は定義されていないことに気づいてほしい。ヨハネは私たちは神を愛すると言っているのであろうか、それとも他者であろうか。この内容からは、互いに愛するように勧めている。しかし私は、聖霊はヨハネに私たちの愛の多義的な対象を離れるように導かれたように思う。というのは、どちらもが真実であるからである。私たちは神が愛してくださっているその愛に浸っている時のみ神を愛することができる。そして私たちは絶えず神の限りない愛を熟考している時のみ互いを愛することができる。最愛の友よ、愛は神からくるのであるから互いに愛し合おうではないか。&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Michiru</name></author>	</entry>

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